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2011年 12月 10日 ( 1 )


2011年 12月 10日

余韻

先日ブログで紹介したFrying DutchmanのhumanERRRORという曲が頭から離れない。

どんな歌だろうとユーチューブで再生し、曲が半ばを過ぎた頃には既に購入の手続きを済ませていた。

聞いたことで少し心のバランスが取れたような気がした。いや、少しでは決してない。
3.11以降これまでに至るほど言葉を欲したことは私にはなかった。
バランスが取れたように感じたのは聞きたい言葉を耳にしたと思ったからだ。

それでも、バランスが根本からしっかりと取れたと思っている訳ではない。
そういうことは起りえないことで、今後長い間、いやおそらく私が生きている間はもう起りえないのではないかと思いながらも、それをどこかで拒否する、頑なに拒否したがる自分がいて、それらの狭間で生じる葛藤に私なりにストレスを感じ悩み続けてきた。生じた溝はきっと大変に深いものだろう。

今はもう12月、だから来月は1月、2012年だ。
しかし年号という記号は変わっても心は全く晴れないだろうし、特に何か変わるものも無いように感じる。
もちろんこれまで通りしんしんと降る雪を見ればきれいだと思うだろうし、晴れ渡る空を見れば美しいと思うだろう。
だが、どこかで違和感を、これまでになかった感情を重く抱かずに時が過ぎることはないと思うのだ。

名称は分からないが、来年を何か年号として「2年」と呼んで良いのではないかと私は思っている。
私たちのありようは余りにも大きく変わってしまったのだから。変わっていないのならば絶対に変わらなければならないのだから。何が私たちに、その次の世代に、そしてその次の世代に、とってベストであるのかを、真剣に考え続けていく必要があるのだから。

前置きが長くなったが、humanERRORを聞いて思いを巡らせた感想を少し書きたいと思う。

この曲は17分ある長い曲だ。メッセージ性の強い言葉が前面に出ていて、曲中で言葉の占めるウエートがとりわけ高いことは言うまでもない。それだけの思いを含んだ言葉が、熱意がこの曲には込められている。これは大変なものだ。私は彼らをリスペクトするし、また大勢からリスペクトされるべきものだと思う。

私がまず記したいのは彼らの世界を見る感覚についてだ。曲の中で、「今日本人がこの困難にどう向き合いどう対応するのかを世界は見ている」、「アーティストが抱いた思いをどう表現するのかを世界は見ている」という意味合いの箇所があったが、私はここに彼らが世界を見る感覚(少なくともその1つ)が現れていると思う。それはつまり、世界(他者)を見る、自身を世界(他者)の視点から見る(自身と世界(他者)を比較する)という感覚のことだ。これは今必要とされているとても大切な感覚なのではないだろうか。とかく日本は海に囲まれているせいか、情報もまた囲まれているきらいが(少なくともマスメディアにおいては)あるように思われる。別に囲まれていても囲まれていなくても話としては良いのだが、視点として指摘したいのは、今目の当たりにしている価値観だけが世の中の全てではなく、視野を拡げて世界には到底知りようもないくらいの価値観が存在しているのだ、というものだ。そしてこの視点を体感することの重要性だ。まとまらないがそのようなことを考えさせられた。

もう1つ次のようなことを曲を聞く中で考えた。
私たちの社会は全体としてどのようなものなのか。原発事故の側面から見えてくることとして、それは経済を何よりも優先させ、結果原発を建設し、その原発で事故が起き人々が巻き込まれ命の危険に晒されても大きな救いの手が差し伸べられない、差し伸べようとしない、全体としてそのような社会だということだ。こう考えた上で、そういった流れに反対したり、この曲を聞いて多少なりとも共感を覚えるようであれば、正にその1人1人が何らかの行動をとる必要があるのだということを考えた。「もう寝てる場合じゃねえんだよ」、大きなお金を負の方向に動かす人の数よりも私たちの数の方が圧倒的に多いだろうから、それぞれがこの問題に対して抱える不満を彼らに分かるようにみんなで表現する必要があるだろう。

そして私たちの日常生活における普段の行動が原発へどうつながるかについて考えてみた。それは電気についてのそれではない。どこか観念のようなものについてだ。私にはお金や効率性を追求していくことと原発とが強くつながっているように思える。効率性の追求は(それだけが要因と断定するつもりはないがある意味で)専門家化の現象を発生させる。それは例えば電気であれば、電気について高度な勉強をした(きっとすごい)専門家が担っているのだから(たとえ彼らがどのようなことをしようと専門家である)彼らに任せておけば(お金を払えばそれについて自身で考えることは特にしなくても良いのだという認識により生じる無関心)大丈夫というような無知で安易な認識や価値観を生んでしまっているのではないだろうか。それは他にも、私たちとマスメディアや金融機関についての関係においても同様に指摘できるように思える。

それは私たちの普段の、本当に何気ない行動から始まっているのではないか。例えば車についてはどうだろう。大人になっていつの間にか免許を取り、車に乗るのが当たり前になっている。気がついたら、歩けば用が済むような距離でも車で済ませてしまっている。歩道で子どもが横断する為に待っていても、良く考えると一体何のために急いでいるのか分からないが、やはり急いでいるが故に止まることもない・・・。例えば畑作業についてはどうだろう。農薬や化学肥料を用いれば苦労からは解放され収量も上がる。しかし身体はそれらを実際に撒く前にそれらが畑に住む生き物たちの生命を始め環境を脅かすことを知っているが、それでも撒いてしまう。心の疑問の声を押し殺しながら・・・。こういった、いわばお金や効率を優先する選択を行うこと、その先に行き着くところが原発なのではないだろうか。お金や効率の優先の、その先の奥には原発が高く聳えているように思えるからだ。まとまりがないがこのように考えた。

考え続けよう、それが何よりも大切なのだから。そして行動しよう、それが何よりも必要とされているものなのだから。

七尾旅人×やけのはら - Rollin' Rollin'(7:03)

(by Ben 10people10color)

by nonukes_niigata | 2011-12-10 00:36 | 2011年12月コメント