人気ブログランキング | 話題のタグを見る

No nukes! Niigata!

nonukesngt.exblog.jp
ブログトップ
2012年 02月 16日

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ 辺見庸さん

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ 辺見庸さん_d0235522_012561.jpg*私は本書を読んで辺見庸さんが石巻市出身であることを知りました。辺見庸さんの力強いことば、物事の中身の、そのまた中身を抉り出していくような、鋭く尖ったことばからは、多くを考えさせられます。私の言葉足らずで申し訳ないのですが、私は本書を一読されることをここで強くおすすめしたいと思います。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』、辺見庸著、NHK出版新書、2012年。

・・・いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考えるてがかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。
われわれはただ際限なく悲しい。失意の底に沈まざるをえないのは、ただ虚しく、茫漠として悲しいのは、この悲しみの、この悲劇の芯を言いあてようとする言葉がないからではないかと思うのです。わたしたちは3.11でいったいなにを失ったのだろうか。時が少しでも傷を癒した後ならば、こう問うてみることはむだではないでしょう。
逆に、こう設問してもいいかもしれません。わたしたちは、なにをまだ失っていないのか、と。(p-56~57)

・・・福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の百六十八個分。このセンテンスはなにかとんでもないことを表現しているようです。ところが、語り手や記事の書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために(そのような意欲もないために)、数値と人間の関係を言いえず、結果、なにごとも表現しえてはいないのです。
そうであるなら、「こんにちワン ありがとウサギ 魔法の言葉で 楽しいなかまが ぽぽぽぽーん」と、どれほどのちがいがあるでしょうか。それはもはや主体の自覚的な意味作用を超えたエクリチュールでさえなく、ただの記号にすぎません。考える人ではなく、存在をほとんど記号化された役人や記者たちが臓腑から吐いたガスのようなものです。デジタル時代には有機物もひとしなみに記号化されてしまいます。(p-103)

(by Ben 10people10color)

by nonukes_niigata | 2012-02-16 00:25 | 2012年2月コメント


<< 柏崎刈羽原発:女性団体、村長に...      「逮捕者なし 不思議な会社」 ... >>