いささか誇大にいうならば、わたしたちは極めて危険な、そして一方的な、一触即発の時代に生きている。
事態は、人びとが盲目的な順応に慣らされることによって、一層悪い方へと向かっているのではないか。われわれの学校や、われわれの仕事場や、われわれの家庭や、われわれの子供たち、そしてわれわれ自身を見るがよい。そこでは慣れることによって平穏無事な、盲目的に順応することによって波立たずに流れて行く危なげで異様な時代がある。
すべてのものが即成され一様に与えられる。
ブラウン管の青白い幽霊の唇から、極彩色の雑誌の口絵と見出しの活字から―そこには性生活のプログラムまでそえられていて、人びとは精神の既成服を着ることにも慣れてしまう。
あのおぞましいことばの即成、衣裳と身振りの即成、微量の毒物を含んでいるかもしれない食物の即成、広告によって与えられるまやかしの自由と幸福のヴィジョン、いつか訪れる死さえ、表情とてもないおそろいの黒こげ姿で迎えねばならぬかもしれないのである。
いったい、このような時代にしてしまったのは誰れか?こう書いてきてわたしは、突然ヘンリイ・ミラーの次のことばにぶつかる。
「世界はわれわれの鏡にすぎない。何か吐き気を催すようなものがあっても、 君、何で吐くんだ。君がみているのは、自分のむかむかするような面じゃあないか」
「われわれ自身を見るがよい」この痛くひびくことば・・・そうして、われわれが人間である限り、いかに拡散しまた奪われようと、内部にひそんでいるだろう人間の部分に限りなく拘泥し、くりかえしたえずそこから出発する。
ヘンリイ・ミラーのことばに即していうならば、わたしは、「自分のむかむかするような面」をひんむきあばきたく思う。おそらく、この厚い自己内部の壁を突き破り、自己と素朴に対決することなしにわたしは前へ進めぬであろう・・・
『アメリカ文学うら街道』、「個に内在する反現実 -
ギンズバーグの場合 - 」、p-11~12、諏訪優、昭和41年、文建書房
(posted by Ben
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